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おふくろと俺の手すりの思い出

「母さん、この階段は危ないから手すりを持って、ゆっくり降りろよ。慌てなくていいから」

足腰が弱ってきた、おふくろに助言した。

この助言は、俺が昔、おふくろから言われたことだ。40年前の記憶がよみがえった。

「裕ちゃん、この階段は急だけど大丈夫よ。横の手すり持ちなさい。そしたら怖くないから。1段ずつゆっくりね」

「怖いよ、おかあさん、だっこして」

「裕ちゃんは、もうすぐお兄ちゃんになるんだから、この階段を1人で降りれるようになりましょうね。でないと、産まれてくる赤ちゃんに笑われるよ。この手すりに掴まれば大丈夫だから」

あまり記憶に残ってないが、その後、幼かった俺は手すりに掴まりながら、階段を1人で降りたのだろう。おふくろの言葉だけは記憶に残っている。

「裕ちゃん、1人で降りれたじゃない。すごいよ、お兄ちゃんになったね。これでお母さん、安心して赤ちゃん産めるよ」

俺は赤ちゃんが産まれてくるのを楽しみにしていた。

それから、しばらくは、この手すりのお世話になっていたのかもしれないが、小学生になってから今日まで、この手すりの存在を忘れてしまっていた。

これから、また、この手すりの有り難さがわかるのだろう。

手すりは光沢のある淡いグリーン色をしている。間違いなく40年前の光沢ではない。40年前の色が何色だったか記憶はない。そして、この40年間に何度も塗り替えられたのだろうが、これまで全く気にとめることもなかった。

 

「裕也、忙しいのに今日は有難う」

おふくろが台所でコーヒーをいれてくれていた。

「あぁ、電話で調子悪いって言うから心配したよ。お医者さんが疲労からきたものだから、ゆっくり休めば大丈夫って言ってたけど無理すんなよな」

俺はこたつに入り、冷えた手を暖めていた。

「今日は病院に付き添ってくれて嬉しかったよ」

おふくろが、嬉しそうな表情で、コーヒーを運んできた。

「それくらい、当たり前だよ。これからも遠慮なく言えよ。それから、母さん、引っ越しした方がいいんじゃないか。ここは交通の便も良くないし、家の中も段差多いし危ないよ。駅の近くのバリアフリーのマンションとかの方が良いんじゃないか」

おふくろもこたつに入って、両手でコーヒーカップを持っていた。

「ここが住みやすいんだよね。愛着もあるしねぇ」

「そうかなぁ、ここは不便だと思うけどな」

「これくらいの不便さがないと、楽になりすぎて、頭も体も衰えそうだよ。少しくらい大変な思いをして刺激があった方がいいんだよ」

「そんなもんかなぁ」

「そんなことより、裕也は仕事は順調なのかい」

「うん、まぁまぁ、かな」

「「まぁまぁ」ってのは、良いのかい、悪いのかい」

「俺のことは心配しなくても大丈夫だよ」

「そうかい、顔が疲れてるみたいだし、少し痩せたんじゃない。美智子さんとは、うまくやってんの?それと亮太は元気かい」

「俺のことは大丈夫だって。美智子ともうまくやってるし、亮太も元気だよ。亮太も来年は中学生だよ。早いよな」

「そうかい、亮太にも会いたいねぇ。じゃあ、これで3人で美味しい物でも食べに行きなさい」

そう言って、財布から出した1万円札をこたつの上に置き、俺の前まですべらせた。

「いいよ、こんなの」

1万円札をそのまま、おふくろに向かってすべらせた。

「あなたにじゃないよ、3人で仲良く使ってほしいの。だから、3人で美味しい物食べに行くのよ」

今度は俺の手をとって、1万円札を手のひらにのせた。

「わかった、有難う」

俺はそのまま、1万円札を受け取り財布に入れた。

「裕也は小さい時から自分のこと話さないから、大丈夫なのか心配だわ」

「俺は大丈夫だから、心配しすぎだよ。息子を信じろよ」

「信じてるけど、もし、仕事で大変なことがあっても、少々のトラブルがあった方が強くなれるからね。後は正直にしっかり前を向いていれば大丈夫、きっとうまくいくから」

おふくろには、俺が今、仕事で行き詰まっている事がわかっているような気がした。「何もかもお見通しよ」といった表情に見えた。

結局、俺の方がおふくろに心配をかけているようだ。いくつになっても、おふくろから見れば、俺は危なっかしい、幼い子供のままなのだろう。それはそれで良いのかもしれない。多分、それがおふくろが元気に過ごせる刺激になっているのだろうから。おふくろは、刺激があった方が良いみたいだから。

「じゃあ、帰るよ。また来るから」

「今日は来てくれて有難う。嬉しかったよ」

実家からの帰り道、あの急な階段を上がった。手すりを握ってみたが、あの頃より細くなったように感じた。そして、40年前のおふくろの忠告を思い出した。

「裕ちゃん、この階段は急だけど大丈夫よ。横の手すりを持ちなさい。そしたら怖くないから。1段ずつゆっくりね」

今日も同じような忠告をされた気がした。